露天風呂に浸かり社会性を思う


 なんだか久しぶりに湯に浸かりたくなって、昨日、五ヶ月ぶりに横須賀温泉を訪れた。
 予報では曇りのはずだったが青空に真っ白な雲が湧き上がる夏らしい天気になった。横須賀温泉は馬堀海岸のすぐ近くにある。露天風呂の正面には海が広がり、遠くは房総半島も臨むことができる。なかなかナイスなロケーションにある。
 久しぶりの露天風呂に浸かると海からの風が心地いい。火照れば風呂から出てベンチに腰掛けて、青空の下で風を受ける。これもなかなか気持ちがいい。

 ところでこういうシチュエーションにありながら、しかも「のんびり」するには最高の舞台だというのに、ぼくの場合、頭が休まらない。いわゆるぼ〜っとしてなにも考えないということができないのだ。
 ぢんさんがいうところの前者だからだ。
 ちょっと説明が必要かもしれない。心理カウンセラーの心屋仁之助の著作にも詳しいが、彼によると人はふたつのタイプに分けられるという。
 マルチタスクができる「前者」あるいは「飛ばない族」と、シングルタスクの「後者」あるいは「飛ぶ族」だ。
 どちらが優れているということではない。前者はマルチタスクだが優等生タイプでたいていのことならそつなくこなせる。一方の後者はシングルタスクだが天才タイプ。ひとつの分野でずば抜けた才能を発揮することができるが、しかしほかのことはからっきし駄目という感じかな。
 この「後者」は日常生活でぼ〜っとすることができる、というか、意識が飛んでしまって、いま自分がなにをしているのか判らなくなることすらあるらしい。
 さながら瞑想中のような感じなのかもしれない。
 でもぼくはバリバリの前者なので、風呂に浸かってそれこそなにも考えられないようなシチュエーションでも、なにかしら考えている。

 景色を眺めながら感想を頭の中で述べていたり、あるいは関連するなにを想い出したり、すぐとなりにいるおっさんの裸体をチラ見して、さてこの人はどんな人なのかなんてことを想像したりもする。いや、べつにそれが趣味ではないのだ。しかし、なにかしら考えることしかできないというとても不便な生き物なのでこうなってしまう。
 若いやつが目に入ればなぜここにいるのかなとか、ご老人であればさてさてこの人はどんな人生を歩んできたのだろうとか、いやだからなぜキミは露天風呂に浸かりながらそんなことを考えているのだと自らを諌めはするんだが、しかしなにかを考えるということを止めることができないのだ。やれやれ。

 ともかく浸かれるだけ浸かって湯から出ると後の楽しみは冷えたビールということになる。というかむしろこれが最大の目的でそのためにじっと熱い湯にその身を沈めていたといういい方もできるかもしれない。
 生ビールの中ジョッキを頼み、ぐびりと思いっきり呑む。苦味のある冷えた液体が喉を通り過ぎて全身へと染みこんでいくのが解る。
 快感という言葉しか見つからない。
 さらにもうひと口流し込む。いや〜堪えられない瞬間。
 で、ふっと隣を見ると若者がカレーを頼んでいた。さっきまで一緒に露天風呂に入っていた人に違いない。逆を見ると老人がウーロンハイを大きなジョッキで呑んでいる。同じ湯に浸かっていた人のはずだ。
 でもなんだか不思議な感じがしたのだ。それはそうだ。お互いに服を纏い、身繕いもしている。

 なぜかこのときぼくは「社会性」という言葉を頭に思い浮かべていた。
 服を纏っているからなのか、それともそれぞれが荷物を持ち、さらにスマホなんかを手にしてあれこれしているからなのか。
 ああ、人間って社会的な生き物なんだなと不意に思ってしまった。いや、ちょうど哲学の本でルソーの項目を読んでいたせいかもしれないが、しかし纏っている服が社会性の象徴のようなイメージといえばいいだろうか。
 ああごめん。結論もなにもないよ。ただ風呂から上がって、冷えたビールを呑みながら、すこしアルコールが回りはじめた頭が勝手に思ったことを、ただこうして書いているだけだ。
 でもなんか突きつめて考えることができそうなテーマではあるけどね。
 なんてことを考えながらテクテクと歩いて駅まで戻ると、逗子で回転寿司を食べて帰ったのでありました。

コメントを残す