書痴の憂鬱


 子どもの頃から「読む」ことが好きだった。小さい頃は主に活字を読むことに喜びを感じていた。物語に限らず、むしろ知識を得るために百科的な読み物が好きだったように思う。
 物語を好んで読むようになったのは高校の頃からだろうか。書痴の気があったようで「読書」それも小説をメインに読むことに生きがいすら感じていた。もうただ読書だけして生きていけたらどんなに素晴らしいだろうと、高校生のくせに無邪気に想っていた。
 大学の頃にはさらにその症状は悪化して酷いときなど、一日に三冊は読んでいた。
「今週は読書の週だ」などと勝手に決めて、大学へも行かずアパートに籠もってひたすら読んでいたときもあった。

 書痴の気といったが、ぼくはコンテンツとしての物語を好んでいたのではなく、やはり「本」という物体に印刷された読み物が好きだったのだ。本屋の書架から一冊手に取り、まずなにをするかというと版数を確認してしまう。これが「初版本」だと知らず胸の高まりを感じる。これが「書痴」の症状であることは疑いようもない。やれやれ。
 版数を重ねていると購入候補から外れてしまうことすらある。なんたる振る舞いか。
 抗うことのできないことなので致し方ない。

 社会に出て結婚をして家庭を持ち、本を読む機会はそれまでに比べてぐっと減った。しかし書痴の気が治ったわけではない。
 やはり毎日のように本屋に行き、そして本を探す。本屋はぼくにとっては掛け買いのない憩いの場でもある。引っ越す前に住んでいた日吉には大きな書店があり、さらに別の書店もあって本を探すのに不自由はなかった。なにかあれば隣の綱島にも大きな書店があって、ちょっと足を延ばせばよかった。本屋の書架を眺めながらその中の一冊に手を伸ばす。無上の喜びの瞬間だ。

 しかし逗子に引っ越しをしてその喜びの機会が減ってしまった。
 最初は「海」があればいいと自らを諭してはいた。買いたい本があるなら Amazon だってある。
 でもぼくはただの読書人ではなく書痴を煩っている厄介な本好きだったのだ。それでも逗子にはちょっとした本屋が二軒あって、どちらも揃えている本には違いがありお互いに補完し合えることがあったのでそれでもなんかとなっていたんだが、そのうちの一軒が閉店してしまい選択の幅がぐっと狭くなってしまったのだ。もう一軒ある本屋は個人書店で当然のごとく自由に本を選べるわけではない。
 となりの鎌倉にも本屋がある。島森書店は大きな書店だ。地域に特化した本は充実しているが、けれどぼくが読みたい本が置いてある確率はかなり低い。今週の月曜日にも実際に行ってみたがそのときに読みたい本はやはり置いてなかった。やれやれ。
 ということで住環境としてはなんの問題なく、いやむしろ終の棲家として最高の場所だと考えている逗子ではあるが、書痴のぼくにとっては解決のできない問題をひとつだけ抱えているということになる。

 それなりの品揃えのある大型書店となると横浜まで行く必要がある。これはさすがにちょっとした負担だ。
 やはりここは Amazon しかないのか? でもね、書架にある一冊に手を伸ばして、パラパラと中を見て、これは読みたいと思える本と出会えたときの喜びは絶対に得られないんだよな。さてさて、どうしたものか。

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