「よろん」も「せろん」も「世論」じゃなくて「輿論」と「世論」です


    相変わらずなんだが、世の中のことをさっぱり判っていないと日々思い知らされている。
    言葉としては「よろん」とか「せろん」って知っていて、それでじつは両方とも「世論」と書くものだとばかり思っていた。ところが違うんだね。「輿論」と「世論」というように書きわけるんだね。いや〜、この歳でまことにお恥ずかしい。
    ついでに意味をちゃんと調べたら、きちんと分けられていた。あたり前か。いやどちらも「世論」と書いていたときは、単に読み方の違いだろうぐらいに適当に考えていた。やれやれ。

    さて「輿論」は「理性的な議論や議論に基づいた意見」で「世論」は「情緒的な私的な共感といった心情」で明確に違う。
    世間で主に喧伝されているのはあくまでも「世論」で、世間的な風潮でしかない。いわゆる空気を読むといった感じかな。言論されるべきはむしろ「輿論」ということになる。英語でいえば「輿論」は「Public Opinion」で「世論」は「Popular Sentiment」ということになる。
    そうか、まったく別物じゃないか。どこがただ読み方が違うだけなんだ。ぼくも相当にいい加減に生きてきたなと情けなく思う。

    インターネットがごくあたり前のように生活の一部になってしまい、この「世論」が盛んに喧伝されているけど、ではこれが正しいのかというと、あくまでも私的な心情でしかないわけだから、そういう意見もあるよね、で終わらせればいいわけだ。
    ところがマスコミは自らの主張に沿ったこの「世論」を並べ立てて、世間の空気を誘導しようとする。あくまでも私的な心情だからともすればノイジーマイノリティの意見が大きく採り上げられてしまうこともある。そういう場合は、その背後にはどういった目論見があるのかしっかりと見極める必要があるということだ。

    ということは、いまはこの「輿論」を戦わせる場がほとんどないということになりはしないか ?
    空気だけ醸成しちゃえばいいということで、終わらせようとしていないか ?
そんなことを危惧してしまう。

    理性的な、たとえばエビデンスを元にしてきちんとした議論など、世の中のどこを見てもいっさいされていないような気がする。
    その顕著な例がいまの緊急事態宣言とオリンピックの無観客だ。そこにどれだけ科学的なエビデンスがあって、それを元に議論されたのだろう ?

    オリンピックでは東京を皮切りにどこも右に倣えで無観客になってしまっている。いや、観客を入れている県もあるけどね。でも限られた会場になっている。
    面白いのは宮城県だ。仙台市長が無観客を要望したが、村井知事は有観客での開催にした。オリンピックに先んじておこなわれたプロ野球のオールスター戦が有観客だったのに、なぜオリンピックは無観客でやらなければいけないのかということで有観客にしたそうだ。
    いわゆる「世論」に押し流されることなく、自らがきちんと考えてそれを実行したことになる。
    これが政治だと思うんだよね。

    世の中の声が怖いからとりあえず右に倣えって、政治家としての職務を放棄しているといわざるを得ない。
    そりゃ「世論」も気になるんだろうが、きちんと「輿論」を考えるということも必要なんじゃないかな。
    だって人気商売じゃないでしょ、政治家って。公のために働くわけだからさ。
    あれ ? これもぼくの勘違い ?

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