愛について語るときに我々の語ること そこにある救いようのなさ 読書メモ


    今年の 2 冊目。レイモンド・カーヴァー 著 村上 春樹 訳「愛について語るときに我々の語ること」読了。

    個人的にいろいろと悩んでいる。ああ、それは物書きとしてだ。それはぼくがいま NOTE で毎週新作を公開している「ものがたり屋 参」の作品がなぜか変質しているからだ。
    どうも「物語」というのは、ただのスートリーではないよな、ということをこのところ感じている。それはたとえばエピソードをどんなに積み重ねても、決して「物語」にはなり得ないということに気づいたからだ。
    今年のはじめから毎晩映画を観るようにしているんだが、やはり映画でも同じだ。どうやって「物語」を描くのか。それはただのエピソードの積み重ねでは生まれないのだ。

    いまさら文学性とかなんとかいいたくはないけど、しかしぼくにとって「物語」ってなんなのかということをちょっと真剣に考えてみたくなってレイモンド・カーヴァーの短編集をチョイスした。
    カーヴァーの本はまだ 20 世紀のころに「ぼくが電話をかけている場所」という短編集を読んでいるんだが、その短編集に収められていた作品のうち五編がこの短編集には収録されている。

    カーヴァーは短編作家で、詩作もしていたらしい。その人となりは訳者でもある村上春樹の解説などから知ることができるんだが、彼がその作品を紹介しなければ日本で読むことはできなかっただろう。
    この本には全部で十七編。かなり短いものもあるし、すこしだけ長めのものもある。そのボリュームはともかく、彼の作風は象徴的なシーンを切り取って、冷徹な眼で描いているところだろう。このスケッチ風の描き方は彼が詩作をしているということも影響しているはずだ。

    アメリカの片隅に住んでいる人物を等身大で描いている。しかも、大半がというかほぼすべてといっていいけど、どうしようもない人物だったりする。ぼくが実際のアメリカの街角がどんな様子なのかを肌で感じたことがないので、そのあたりは想像するしかないんだが、しかし、この救いようのなさがこれでもかという感じで書かれている。ただ、そこには絶望感はない。絶望すらできない救いようのなさだったりする。
    そして孤独感かな。

    これは前作「ぼくが電話をかけている場所」のあとがきにも書かれているんだけど、カーヴァーの作品には「トリック」も「おち」もない。カーヴァー本人によると「cheap-trick」なんだそうだが、どこを探してもいわゆる「おち」はない。作品を最後まで語ったところで読者を突き放している感じだ。
    だからだろうか、読み終えてなにか口の中に雑味が残ったままのような感じを抱く。これがカーヴァーの世界なんだろう。

    なんてね解ったようなこと書いちゃったけど、ほんとうはどうなのかよく解らない。
    ぼくにとってこの作品は、そういういい方をしてよければ「これが文学です」という模範解答ではないような気がすることだけは確かだ。それに解答があるとすればだけど。

    ということで、ぼくは「物語」はなんなのかという答えを求めて、また本の海へと旅立つことになるんだろう。
    つぎはちょっと古典的な作品を読むことにする。


  

One Reply to “愛について語るときに我々の語ること そこにある救いようのなさ 読書メモ”

  1. […] り、いつかはという考えはあった。それでやっと読むことになったわけだ。レイモンド・カーヴァーを読み直して改めてこれはきちんとヘミングウェイと向かい合わなきゃと思ったことも […]

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