そこに「凄味」はあるのか ただ書きたいものを書いてきたんだよね


「脱走と追跡のサンバ」を手に取ってから、ぼくは筒井康隆を愛して止まないわけだが、もはや巨匠といっていい彼が書いた「創作の極意と掟」という氏にはめずらしい小説作法の本がある。
    つねに本棚の片隅にあって、なにかあると手が伸びる一冊でもある。
    この最初の章が「凄味」である。「小説を書こうと決めたときから、その人の書くものには凄味が生じる筈である」ではじまっている。

    いまさらなにをとお思いだろうが、じつはこのところ悩んでいたりする。さて「凄味」か、とも思ったりしていて、ぼくの書く作品にそれでは「凄味」があるのかといわれると、自分自身でも首を捻らざるを得ない。
    これは前にも書いたけど、いまさら胸を張って小説家でございますという気はないんだが、さりとてぼくがやっていることは、日々小説を書くということなわけで、であればやはり小説家でいいかと、こっそり納得している。
    そこで「凄味」だ。ぼくの作品にそんなものがあるのかどうか、どうも判断がつかない。

    じつはいまさらなにを悩んでいるのかというと「ものがたり屋 参」である。このシリーズは、そもそもかなり昔に書いた短編のシリーズの第三弾ということになる。はじめのシリーズは六編書いたんだが、さすがにまだ書き出したばかりということもあり、あちこちに隙がある。
    それでもタイトルの「ものがたり屋」には愛着があって、そのまま引き摺っているわけだ。

    元々、それっぽい話は好きな質で、それがこういう類のものを書いてみようかと思い立った動機になっている。
    そのあと時期はばらばらに書いたものを「ものがたり屋 弐」として、まとめたんだが、この「ものがたり屋 参」は去年の 5 月 26 日から書きはじめて、一話三パートで完結させるスタイルで、いま第十五話を書いている。あと一ヶ月ちょっとで一年間書き続けているということになる。

    いろいろな作品を書いてきたが、これほど長い期間、ひとつの作品を、確かに各話で話は別といってもいいんだけど、シリーズとして書き続けてきたのははじめてのことだ。
    だからなんだろうか、意識しているいないに関わらず、作品が変質しはじめている。じつはこれに少々途惑っている次第である。

    その手の怪しい話をさくっと読めるものをということではじめたはずなんだが、だんだん自分でもいったいなにを書いているのか解らなくなりつつあるのだ。
    いや、ものがたりは書いている。それっぽいストーリーもある。でも、はじめはたとえていえば油絵ではなく、ささっと鉛筆で素描するような感じでまとめるつもりだった。色をつけてもせいぜいが色鉛筆レベルというつもりだった。

    それが各話ごとにすこしずつだけどいろいろなチャレンジをして、たとえばふつう三人称で書くところを一人称にしてみたり、二人称にしてみたり、時系列をわざとばらばらにしてみたり、ときには生きている人以外の意識をメインに扱ってみたりしてきた。

    だからなのか、いろいろな決めごとの箍が外れてしまったのかもしれない。
    なにやら書いている本人にも不明な作品が生まれつつあるのだ。

    ということで改めて自分を見つめてみるかと筒井大先生の著書を再読、いや何回目の再読かは解らないけど、している次第である。
    ぼく作品はどこへいくんだろうか ?
    それが自分にも解らないということになるとはねぇ。

    いや、そういういい方をすればお恥ずかしい限りである。
    でも、できたらそんな作品を読んで、できたら感想を伝えて貰えると嬉しい。
    このままぼくが作品の洪水の中で迷子にならないために。よろしくね。


 

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