鎌倉城って聞いたことがあるけど、鎌倉には石垣なんてないよね


    逗子に引っ越しをして、よく鎌倉を歩くようになったんだが、意外に思ったのが城址がないということだった。
    鎌倉城なんて言葉を聞いたことがあったんだが、では城跡はどこにあるんだろうなんて思ったことがあった。ぼくが城に対してまったく無理解だったからなんだが、その疑問はいつの間にかぼくの中では雲散霧消してしまっていた。
    でも、こうやってあれこれと武士について考えてみると、やはりこれはきちんと考えなきゃいけないことだよなということで、いまちょっと城について本を読んだりしている。

    そもそもこんな勘違いをするのは、ぼくにとって城というのは、石垣があって天守閣があってというイメージだったんだが、これが城に対する無理解そのものだったことが解ってきた。
    城ってよくよく考えてみると古代からあるんだよね。そう、吉野ヶ里遺跡って要するに古代の城のひとつだったりする。濠を作り、それで住居を護る環濠集落ってのは城のひとつの形だったのだ。根本的な話をすると外敵から護るための施設が城なのだ。

    ぼくたちが、といっていいと思うけど、城だと思っている建造物のほとんどは織豊時代以降に築城されたものということになる。そうなんだよ、このスタイルの城を造ったのは織田信長なのだ。
    近世に造られた城をぼくたちは城のイメージとして抱いているわけだ。

    だとすると、そりゃ鎌倉にはそういう意味での城はないよね。あたり前だ。なぜかというと鎌倉の土地自体が外敵から防御する構造になっているからだ。三方を急峻な山に囲まれていて要害になっているわけだね。天然の土塁といってもいいだろう。通り道は狭い切通ししかない。
    鎌倉は簡単にいってしまうと城郭都市といっていいかな。
    だからいわゆる城につきものの石垣とか天守なんてものはない。

    そういう意味でいえば織田信長だって小牧山城に移るまでは平屋の砦として機能していた場所で生活していたわけだ。これがその時代のスタイルだったんだね。
    逗子にも城の跡といわれるところがある。鐙摺城址だ。でも実際にいってみると解るけど、鐙摺湾に聳える小高い山の上の平地だったりする。アイキャッチの写真が鐙摺城址だ。とくになにかが残っているわけではない。ただの平地なんだが、しかし遠く鎌倉まで見通すことができるようになっている。ここにかつては館があって、それを城と呼んだのだろう。

    そういえばかなり昔のことになるんだが小谷城址にいったことがあった。ここも山の上を工夫して館を造り、城としていのだろう。まったく知識のなかったぼくは城らしくないその跡に肩透かしを食ったような感じがしたんだが、改めて訪れたら、もっともっときちんとここになぜ城を築いたのかを理解することができるかもしれない。

    ということで鎌倉時代、中世の城というのは、いわゆる防御するための施設を城と呼んでいたということになるのかな。
    だから鎌倉城って表現があるけど、ざっくりといえば鎌倉全体が城であり、ミクロな見方をすれば頼朝の住んでいた館などを城と表現したんだろう。

    だから鎌倉に石垣がないのもあたり前だね。

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