貴族政治では見えなかったものが武家政権で見えるようになったのかな


    さてと「武士」についてつらつら考えているわけだけど、前回は鎌倉政権はいつできたのかで話が終わっちゃったので、武家政権の政治はどんなものなのかということについて、続けて考えてみたい。というか、ほとんど受け売り状態になっちゃうかもしれないけど、ともかく書いてみよう。

    これは前回にも書いたけど、それまでの貴族政治がいわゆる民をまったく考慮しない政治だったということだ。なにしろ、貴族たちは都にいて、そもそも民衆とはいっさい関わりがなかったからね。
    じゃあ武士はどうなのかというと、これは貴族とは違って、土地の所有が第一だから当然、民との付き合いが、というか管理というのかな、必要になってくる。
    この土地の私的な所有を公的に認めさせるための武家政権だからね。

    武士たちが鎌倉政権に求めたことがまずこのそれまでの領地を安堵することだ。その差配する権利を朝廷に認めさせたからこそ、鎌倉政権が曲がりなりにも樹立でき、そして支配力を維持することができたわけだ。
    最初は東国に限られていた鎌倉政権の支配だが、承久の乱、竹田恒靖氏にいわせると「承久の変」ということになるんだけど、この乱に鎌倉側が勝利したことで西国にもその支配が及ぶことになった。それまでは西国は朝廷、東国は鎌倉幕府ということで二分されていたんだよね。

    ただその頃までは、武士はただの乱暴者でしかなかった。承久の乱の際に京に攻め上った武士たちはだれひとりとして文字が読めなかったらしい。武力に優れているというだけだったわけだ。ちなみに当時の公式文書はすべて漢文で表記されている。
    西国も支配下においたときに、きっと鎌倉幕府の武士たちは文化の差というか、教養の差といえばいいのか、それを痛感したことだろう。腕っ節で従わせるだけでは民をまとめることはできないことも、きっと痛感したに違いない。
    それまでの東国の管理ということだけでいえば、いままで変わることはないので、なんとかなったかもしれないが、西国を支配地として与えられた武将は、まったく見ず知らずの土地で、いままでに接したこともない民を統治することになるわけだからね。

    武力で好き勝手できるわけではないからこそ、きちんとしたルールが必要になる。それをちゃんと成文化したのが「御成敗式目」だ。
    って、これはぼくが勝手にいっているのではなく、本郷先生の「なぜ武士は生まれたのか」に書かれていることなんだけどね。そうです、受け売りです。
    これをまとめたのが執権の北条泰時だ。
    それまでは頼朝がはじめた慣習や単発で出された法令でなんとかやっていたんだろう。それを体系的にまとめたものだ。そこに民を慰撫する条例が書かれている。直接、民衆と関わり合うからこそ必要になったことだろう。それまでの貴族政権にあった公家と民との間の深い溝というか、別の世界に近いかもしれないけど、そういったものが取り払われたということだろう。
    武士と民は直接関わり合う間柄だからだ。だから暴力で支配しても、ただそれは自ら跳ね返ってくることが、きっと幕府成立後に身に沁みて解ったのかもしれない。

    この撫民思想は北条時頼によって強化されている。御成敗式目にさまざまな条例が追加されているのだ。
    民をきちんと撫民という考え方で統治する。それが武士であるという考え方がしっかりと根付いたからこそ、これから江戸時代までの 700 年間もの間、武家政権が続くことになるんだろう。

    貴族政治ではまったく見えなかった民という存在が、武家政権できちんと見えるようになったということだね。なるほど。

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