映画と数学の関係 因数分解して映画を撮るという話


    今年の武漢ウイルスのせいで生活が一変した人は多いと思う。もちろんぼくもそのひとりだ。
    いや癌に罹患したこともぼくの人生を大きく変えたけど、しかしこの武漢ウイルスでは生活の習慣ががらりと変わってしまった。その代表的な例が YouTube をよく観るようになったということだ。
    昼間は主に情報系のコンテンツを観て、夜はもっぱら NFL のゲームがメインだった。それが七月の終わりぐらいから映画に変わった。映画は YouTube ではなく、Amazon Prime で観ているけどね。

    熱心な映画ファンということではないんだが、それでも以前は話題の作品はよく観ていたと思う。改めて考えてみると、その昔は DVD で映画を観ていたなぁ。それがネットに変わったのは逗子に戻ってきてからだから、ここ五六年のことだ。
    いまはなんの予備知識もなく、Amazon Prime に表示される映画をてきとうにチョイスして観ている。だからときには B 級ともいえないような作品に当たることもあるし、ときには思わず身を乗り出してしまうような作品にぶち当たることもある。

    つらつら映画を観るにじつは思い出すことがひとつある。
    それは北野武のインタビュー記事だ。たぶん初出は 2012 年頃だと思う。映画を作るのに因数分解が必要だという話だ。
    これは彼が例として挙げている話だけど、たとえば殺人のシーンを撮るときに、四人を殺すシーンを次々に撮っていたら、とても冗長としたものになってしまう。彼によればそんなシーンは必要ないという。
    銃を持った男が夜道を歩いている。そこに四人の死体の写真を次々に映していけば、彼が四人を撃ち殺したことが観客に伝わる。
    これが彼のいう映画における因数分解だ。

    観客に伝えたいことをぎりぎりまで削っていく。そうしたことで作品自体がシャープになっていくというのだ。
    これはちょっとした目から鱗だった。なるほど。

    ストーリーをだらだらと次からつきへと展開させても、それではじつは作品にはならない。必要最小限に絞って、そのシーンを緻密に創りあげていく。そういうことで作品に深みが出るし、またただポップコーンを頬張りながら観るような映画とは一線を画すことができる。
    いやお気楽映画がいけないといってはいない。けれど、そのすべてを映像で表現するのではなく、省けるところは省き、肝の部分をちゃんと見せてくれることで話を解らせてくれると、やはり感情移入もしやすくなる。
    ようするに頭をちょっとだけ使った方がおもしろく観られるというわけだ。

    なんだってこんなことを書いているのかというと、じつは小説だってそうだよね、ということなのだ。
    いまぼくが書いている「ものがたり屋 参」のシリーズは、そういういい方をしてよければ極彩色の油絵とは対極にある、さらっとまるで素描したようなタッチの作品にしている。これがやはり因数分解をしながらシーンを選択しなければできないことなのだ。

    いや、自分で書いていて、ついこの前、そのことに気がついて、「おお、たけしのいっていたことはこれだよな」と改めて腑に落ちた次第である。
    まぁ、中にはいったいなにがいいたいのかわけの解らない映画もあるけどね。そのあたりの匙加減が難しいということかな。

    ということで、今夜はどんな映画を観ることになるんだろう。夜が楽しみだ。

    それから、もしこの話に興味があれば、ぼくの小説も手に取ってもらいたい。Kindle 版を販売している。Kindle Unlimeted だと無料で読めるので、ぜひ、よろしくね。
    なんだか宣伝になっちゃったな。


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