知の巨人の不在 知性とほど遠いいまだからこそ必要な気がするんだよね


    もしかすると「知性」などという言葉とは一番かけ離れたところに生息しているだけのぼくかもしれないけれど、やはり気になる。
    それはだれかの知性に教えを請う必要があることを自覚しているからなのかな。そう、やはりぼく自身は知性という言葉とはかけ離れた場所に生息している猿みたいなものなんだよね、きっと。
    なぜにこの「知性」ということが気になるのかというと、もしかしたらいま巷に溢れているのはむしろ痴呆という言葉がふさわしい輩が多いのではないかと思えてしまうからだったりする。

    アメリカの今回のデモ騒ぎの余波として、たとえば過去の人たちの銅像を毀損したり、あるい廃棄したり、その像を公開の場から姿を消すなんてことがあったりするからだ。なぜにいまの価値観を、その過去の人たちの求めるのか、知性とはほど遠いぼくには理解不可能だったりする。
    それってたとえば坂本龍馬が郷士だったから差別していたんだなんて、あきらかにあちら方面の屁理屈で指弾しているようなものだ。だって江戸時代の人じゃんでぼくの場合は終わるんだが、コロンブスについては認められないようだ。
    中でも一番腹抱えて笑ったのが、いや理解できない行動を目の当たりにするとときとして人は笑ってしまうんだが、チャーチル像に対して「レイシスト」と落書きしたって話だ。チャーチルってナチスと戦った首相だよね。ナチスがレイシストの最たるものであって、それと戦った人がどうしてレイシストなのか、どんなに逆立ちしてもぼくには理解できなかったりするわけだ。

    像を破壊したり、廃棄すれば、その時代の常識だとか価値観が、いまの時代に沿うものになるわけではない。なかったことにすればいいというのは単なる歴史修正主義ともいうべきもので、まったくただの負け惜しみでしかなくなんの意味もない。
    歴史は事実をきちんと見つめて、評価するかが大切なので、その事実を覆い隠すのは、ただの愚かな行為でしかない。ばっかじゃないの〜、で終わりってことだ。

    それはともかく、こんな時代だからこそ、世界を見透す視点をというものが必要なんじゃないかと思う。それをぼくらに与えてくれるのが「知性」という存在だ。まぁ、知識人とかジャーナリストに求められるもののはずだ。
    そんな知性を感じさせてくれるような人を、大変残念なことなんだが、いまの日本にはいないようにしか思えないことがとても残念でしかない。いや、明らかに頭脳明晰な人たちはいる。ぼくには到底及ばないような頭脳をお持ちで、その理論構築も、また文章力も優れている人たちは確かにいる。でもなんだが、根本的な視線がどうしてもカーブしているような気がして、その教えをそのまま受け入れることができなかったりする。とても哀しいことだ。

    こういう知性を与えてくれるはずのたとえばマスコミが、なにが哀しくて学芸会に成り下がっているのか。まぁ、痴呆という言葉がなによりもふさわしいというのがマスコミってのが、なによりも悲劇だよね。

    いまはしばらく知性のかけらをぼく自身の足で探していくしかないのかもね。
    さて知性に手が届かない猿のようなぼくにそれができるのか。
    マスコミにその答えがないことだけは判っているから、まぁ、いいのかな。やれやれ。

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