ぼくが朝食の写真をアップするわけ 些細なことを無駄に考えてみる

    今日の朝食は OK ストアで購入したグレインロールをカットして、チーズとハムとレタスを挟んだサンドに、スクランブルエッグとトマトのサラダだった。このところトマトジュースを飲むのが定番になっている。
    ぼくはこの食事を写真に撮って、まず Instagram にアップしている。そのまま Facebook と Twiter にも連動して投稿されるようになっている。食事の写真をアップするようになったのは、いつからだろう。
    自分で作った食事の写真をせっせと撮るようになったのは、きっと逗子へ戻ってきたからだ。2014 年の五月のことだ。

    そもそもなぜ写真を撮ろうと思ったんだろう ?
    はじめは単に記録という意識だったように思う。それまでもたまに食事の写真を撮ることがあったからだ。食事の質を意識をするようになったからは、この記録という側面が強くなったように思う。でも、実際にこの写真が記録という意味をそこまで持っているのかというと、いまは疑問だ。まぁ、癌に罹患してから食事の質というよりは、食べること自体が目的になったからだ。
    それでもいまだに毎朝のように写真を撮っている。さて、なぜだろう。

「食事」ということをちょっと小難しく考えてみると「何を、どのような料理法で、どのように調理して、どのようにサーブして、どのような形式で、誰と食べるかということは、私が何者であるかを決定する、すぐれて記号的なふるまいだからである」という考察がある。これは内田樹氏の「村上春樹にご用心」という著作に記載されている。
    さらに続くのが「共食 ( ともぐいと読まないでね ) こそが人類にとって最も古い共同体儀礼だからである」という説明だ。

    彼によると、独りめしは社会に参加することを拒絶することを意味することになるらしい。あらま。
    ということは食べるということは、つねに「だれと」ということが意識される行為でもあるということらしい。独りめしということはわびしさを証明するひとつのファクターということなのかもしれないね。
    だからぼくは写真を撮ることだけでなく、SNS を通じて公開することで、どこか社会との繋がりを希求しているということなのかもしれない。ひとり自宅に籠もり、外に出たとしても、特定のだれかとコミュニケーションを取ることもなく、社会的に孤としてしか存在できないぼくが無意識のうちに望んでいるということなんだろうか。
    なんて小難しいことを考えても仕方ないんだけど、まぁ、確かにだれかと一緒に食べて、互いの反応を確認し合い、互いの存在自体を認め合う同期的共生感をこそ望んでいるのかもしれない。

    簡単にいうと、同じテーブルで食事して「美味しいね」と語り合う人を求めているということだね。
    なんだ、ぼくってただの寂しい人なんじゃん。やれやれ。

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