牡蠣フライが食卓に並ぶまでを思う これでハードルが下がるかな


    さて、こっそりと昨日の続きである。
    たとえばぼくの「しあわせ」を感じるハードルが高いのであれば、それをまず下げるところからはじめればいい。理屈ではそうなのだ。ただそのハードルをガチャガチャと下げてやればいい。
    ところがこれがなかなか簡単にはいかない。
    なぜかというと、ぼくのあらゆる価値観を総合した結果、勝手に設定されたハードルだから。これをちょっと意識したからといって、はい下がりました、というわけにはいかない。
    ぼくがぼく自身をどう考えているのかというところからはじまり、さまざまな価値観をひとつずつ点検していかなければ、このハードルは下げて、別のハードルはこのままで、というわけにはいかないということが、じつは遅ればせながら解ってきたところなのだ。まぁ、なんと人生をここまで無駄にしてきたことか。
    いや、それもこれもひっくるめて全部ぼく自身の意識のせいだから、これがぼくの人生でしたといいきってしまってもいいのかもしれない。それにしても、この歳にしてやっとかよ、というのが正直なところだ。やれやれ。

    それでもやはり下げられるハードルなら、この際だから徹底的に下げたい。だからといって、こういってはなんだが七面倒くさいことはしたくない。そう、いまさらぼくの価値観をすべて解体して、なんてことをやっている場合ではなく、まずはこの「しあわせ」を感じるハードルを手っ取り早く下げたいのだ。
    ではどうしたらいいのか。
    いろいろと調べてみたが、ともかくは手近なところで、ささやかなことに「しあわせ」を感じる練習をすればいいのではないかと思い至ったのだ。

    ということで、なにを試したのか。それは食べ物に感謝しつつ、その美味しさを噛みしめるということだ。
    まぁこれは「ラッキー道」の師匠ともいうべき武田双雲氏が、ともかく手近なものでやたらと感動しまくるというエピソードからヒントを得ているんだが、まず食べ物に感謝するところからはじめてみた。

    なにかを食べて「美味しい、うきゃー」といって簡単に感動できればいいんだが、いまのぼくのハードルはそんな簡単にクリアはできない。それどころか「だから? ふん」と素っ気ない反応をしてしまうのが関の山だ。
    ということで、その食べ物がどうやっていまぼくの目の前にあるのか、その履歴をあれこれ想像してみることにした。

    昨日の夜、ぼくはスーパーで買った「牡蠣フライ」を食べたんだが、「ああ、美味しい」といって食べるのではなく、まずはその材料の「牡蠣」にどれだけ人の手がかかっているのかを考えるところからはじめる。
「牡蠣」って養殖ものなので、それはそれは人の手が、しかも月日も合わせてかけられている。というところから想像してみる。
    夏頃に筏の吊されて収穫される秋まで、あたりまえだけど人がきちんと管理しないと「牡蠣」は美味しく成長してくれない。そうやってていねいに育てられた「牡蠣」をスーパーが仕入れて、しかも惣菜を作る人たちが「牡蠣フライ」にして、やっと店頭に並ぶわけだ。
    それだけの月日と人手を思うと、おもしろいもので、いま目の前にある「牡蠣」がなんだかとても愛おしくなる。
    もちろん食べればなぜか美味しさが加味されるわけだ。
    いや、これがね、マジでそうなんだよね。一度、騙されたと思って試してもらいたい。

    ということで、こうやって食べるといままでとはちょっと違って、自然に感謝できて、しかも美味しさを感じることができるわけだ。
    まだはじめたばかりだけど、ちょっとこれは継続して試してみたいと思う。
    こんなことでハードルが下がるなら、それはそれでいいことでしょ。

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