しあわせのハードルを下げる すべての感覚を一から積み上げよう


    今月の頭に、人生の特異点とでもいうべきできごとを経験したわけなんだが、それがきっかけなのか、じつはこのところちょっと腑抜けた状態が続いている。なにがあったのか、詳しいことはいずれ書くことができるだろう。
    ただその後遺症ではないんだが、それまで維持していたテンションとか、それから抱いていた感覚や築いてきた習慣などが、すべていったんリセットされてしまったような状態になっている。
    恐ろしいことにそのまま二週間ほどが経ってしまった。

    ということで、いろいろなことを、またはじめの一歩じゃないけど、手探り状態で積み上げていく必要に迫られている。いや、そこまで切迫はしていないけど、なんとなくいまのままではなくて、なんとか半歩でもいいから踏み出したいなという気になってきた。
    ようやく、である。

    そんな状態で海まで散歩して、蒼く輝く空と碧く広がる海を見ていても、いままでのような感覚で「観る」ことができなくなっているような気がしてならないのだ。
    いままでなら、なんとなくだけど、こころの底からホッとするような、こころが解けていくような、そんな想いを抱くことができた。
    けれど、どうもそういうこころの状態にならず、もっと平板な感じでしか景色が見られないような気がしている。
    逗子湾のあの素晴らしい光景を観て、こういう状態でしか受け取れないなんて、なんてもったいないことなんだろう、とは思う。そう考えるのだが、しかし、こころがいままでのように反応してくれないのは確かなのだ。
    それをはっきりと意識することができて、ぼくは最初から全部やり直す必要があることをようやく悟ったというわけだ。やれやれ。

    それでいろいろと考えてみたんだが、どうやらいままでのぼくは「しあわせ」に対する感度が人とは違うのではないかということが解ってきた。碧い空と碧い海。江の島と富士山。そんな景色を見れば、いままでなら感じていたはずのちょっとした「しあわせ」。
    たとえば美味しいものを食べたときの、ちょっとした喜び。美味しいものを飲んだときの、ちょっとした感動。親しい人と過ごす寛いだ時間。そんなものがいまのぼくには無縁なものになっている。
    もしかしてぼくは「しあわせ」というものを、きちんと受け取ってきていなかったんじゃないか。
    そんなことを考えている。
    人生を振り返って「ああ、しあわせ」だったという記憶を探ってみても、じつはぼくのどこにもそんなものを見つけられないでいる。そのことに、いま酷く途惑ってしまっているのだ。
    なんだか「しあわせ」ということに関して、滅茶苦茶ハードルを高く設定していなかったか ?
    そんな疑問が湧いてくる。

    なんだか、もっともっとつまらないことに「しあわせ」を感じてもいいんじゃないか。いま、ぼくはマジで素直にそう考えている。
    これがいまの「はじめの一歩」になるのかどうか、それは解らないけれど、それでも「しあわせのハードル」を下げるってのは、試してみてもいいことなのかしもれない。

    こうやって blog を書けるということだって、そうだよ「しあわせ」のひとつだよね。
そこから、はじめよう。

One Reply to “しあわせのハードルを下げる すべての感覚を一から積み上げよう”

  1. […]     さて、こっそりと昨日の続きである。     たとえばぼくの「しあわせ」を感じるハードルが高いのであれば、それをまず下げるところからはじめればいい […]

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