瞑想と禅とマインドフルネス その似て非なるもの


    またしてもスピに嵌まってしまうかもしれない内容になるかもしれないけど、きちんとぼくの中で整理をしたいのでお付き合い願いたい。
    そもそもなぜ「瞑想」というキーワードがこのところのぼくの blog に散見されるのかというと、自分自身の無意識と真っ正面から向かい合いたいと思ってしまったからだ。そのきっかけは先週の日曜日の blog に詳しい。
    真意としては、ほんとうの自分自身をきちんと認識したうえで、それがどんな自分だろうと全面的に認めたいと願っているからだ。だったらどうやってその自分の無意識と向き合うことができるんだろうということからスタートしている。

    友だちの岡本さんがその blog を読んで、田坂 広志著「運気を磨く~心を浄化する三つの技法」という本を紹介してくれた。ぼくはすぐにそれを読了したわけだが、その技法に「瞑想」について書かれていた箇所があって、それを読み解くとどうやら「瞑想」というのはぼくが考えているようなことではないらしいことが解った。
「瞑想」は「する」ものではなく、「起こる」ものなんだそうだ。
    ぼくはてっきり坐禅をイメージしていたんだが、それとは若干違うのかもしれない。

    じゃ、いま流行っている「マインドフルネス」はなんなのだろう。ということで、いろいろと調べてみた。
    簡単にいうと「マインドフルネス」は目的をもって「いまを意識する」ことなんだそうだ。目を瞑って呼吸に意識を集中させると、いろいろと考えが浮かんでくる。ああ、いま考えているなということに気づいて、また呼吸に意識を戻す。これが「マインドフルネス」の基本的な方法だ。
    じゃ、「禅」はなんなのかというと「禅」に目的はない。敢えていうのであれば「禅」をするために「禅」をする。まるで禅問答だけどそういうことだ。「マインドフルネス」には集中力を高めたり、睡眠の質を向上させたり、ストレスを軽減させるという、ちゃんとした目的がある。そこが「マインドフルネス」と「禅」の明確な違いだ。
    そのときの心境を、いわゆる「瞑想状態」と説明されるんだが、ぼく自身が求めている「瞑想」とはやはり違う。そう、ぼくは自分自身の無意識と向き合いたいのだ。

    なんてね「無意識」を「意識」することができるのか。あるいは、それは論理矛盾しているじゃないかという意見もあろう。それはそれで重々承知している。だからここから先はもしかするとスピリチュアルの分野になってしまうのかもしれないのだ。やれやれ。
    それでもぼくは自分自身の無意識となんらかの方法で向き合うことができると信じている。もしかしたらそれは「瞑想」とは関係ないかもしれないけど、いまのところ糸口はそこしか思いつかないのだ。
    だから、いまぼくはともかく心掛けていることは、自然に身を浸してなにかを感じるところからはじめている。そこで感じたなにかを「言葉」にした瞬間、「瞑想」が解けてしまうことも知っていて、それでもやはりそうせざるを得ないのだ。

    ところで「マインドフルネス」を調べていたら「デフォルト・モード・ネットワーク」について言及している人もいた。ところが昨日読んだ「ぼんやり脳 !」とは結論が真逆だったのだ。かなりのエネルギーを使うことは同じだったが、だから「デフォルト・モード・ネットワーク」状態が続けば脳は疲弊するというのだ。
    なるほどそれはそれで理屈だ。さて、どっちがほんとうなんでしょうかねぇ。
    というか、やはり「脳」の話にまだちゃんとした答えはないということなんだろうか。

    であれば、ぼくとしてはやはり「瞑想」という方法で無意識にたどり着けるのかどうかを、この際、きちんと確かめてみたいよね。

「瞑想と禅とマインドフルネス その似て非なるもの」への2件のフィードバック

  1. […] さて「瞑想」である。昨日も書いたけど、いまぼくがやるべきなのは「瞑想」なのだ。 それがどういう事態を招くのか、それはまだ解らない。効果なんてまったくないかもしれない。あ […]

  2. […] はどうなのかな。「DMN」状態になっているのか、それとも田坂広志氏がその著書に書いていたように「瞑想」状態が起こっているのか。これはまだ疑問のままだ。     とも […]

コメントを残す