いまは常にいま いまだに昭和的なものを引き摺っている哀しさ


    時代はどんどん変わっている。しかも、その変化のスピードはめまぐるしいほど加速されているようで、あっというまになんだかすべてが変わってしまう。
    そんな流れに抗うことなどできないのだが、いまだに昔の、敢えていわせてもらえば「昭和的な価値観」で論じていたり、コラムが書かれていたりするのを読んだり見たりするにつけ、脱力感しか抱けなくなっている。
    それは正月ネタで書かれた日経ビジネスのコラムが象徴しているんだが、なんて偉そうに書いているけど、このコラムを読んだのはとても久しぶりだったのだが、その価値観というか、根底の考え方のあまりの鉄板ぶりにマジで脱力してしまったのだ。
    令和だぜ、時代はとつい嘯いてしまった。

    ぼくもその昔は、世の中は正しいことと間違ったことできちんと切り分けられるなんてなんの疑いもなく信じていた節があるんだが、これだけジェットコースターのような人生を送ってくると、どうもそんなに簡単なものじゃないことを身をもって知らされてしまう。
    いや、まぁ、いまさらだけど、ぼくもその昔はずいぶん左を向いていました。
    反対することがなによりも大切なものの見方なんだと、いつのまにやらすべてのものを斜に構えてみる癖がついていた。

    でも、ここ何年もいつも反対しか唱えない人たちや、それに類する人たちを見ていて、やはりなんともいえない違和感を抱くようになってしまったわけだ。
    だから「正しい」「間違っている」という二項でなにごとも判断できるような簡単な時代に生きているわけじゃないということをたっぷりと知らされたことにもなる。

    国際社会を見ても、片方が正しくて、もう一方が間違っている、なんてことはほぼあり得ない。今回のアメリカとイランの衝突についても正月からのできごとを追っかけるだけで判断なんてできやしない。
    イラン革命時だから 1979 年のことだけど、当時の国王パフラヴィーの入国をアメリカが認めて、それに反発してイランの人民がアメリカ大使館を占拠した事件から因縁は続いている。
    いやもっと根本的なことをいっちゃうと、キリスト教とイスラム教との対立ということになるんだろうから、そりゃもう時代を遙かに超えた昔から、対立の根はあったというべきなのかもしれない。

    なんてことを考えると、憲法第九条が守ってくれるなどという御伽話をいまだに声高にいい募って、改憲の議論をきちんとしない政治家は信用できない最たる存在といってもいいかもしれない。どうなるにしろ、まず議論はきちんとしろよと思う。
    それはふだんの国会でもそうだ。まともに議論しろよと、つねに思う。

    話が逸れちゃったか。
    あまりにも古い価値観でものごとを語っている姿はなんだか見ていてやるせない。

    なんてね、今朝見た Twitter のとある人の Retweet であまりの健在ぶりにがっくりときてしまって、こんなわけのわからない blog を書いてしまった。
    まことに申し訳ない。
    いや、でももう「昭和」なんて時代は遙か昔だし、その頃の価値観でものごとを論じてもらっても、ただ残念なだけなんだよね。


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