改めて写真と向き合う ぼくの撮りたい写真ってなんだろう


    昨日の午前中は雨。午後になり、その雨は上がったけど置き土産として、海には波が打ち寄せていた。
    そうなると逗子海岸はサーファーたちの日になる。この日もそうだった。
病院から戻って用事を片付けたぼくは、いつものように海へと出向いた。写真を撮るためだ。
    じつはいまとある仕事が進行中で、まだ詳細は公表できないんだが、そのためにぼくは写真ときちん向き合うことになった。

    コピーライターとして仕事をはじめてから独立して会社の代表になったんだが、メインのクライアントの広告をすべて手がけることになり、そのときからいろいろなカメラマンと付き合ってきた。
    懇意にしていてなにかあるといつも助けてもらったカメラマンもいるし、それなりに広告の写真を撮ってきた方にデザイナーを通して依頼させてもらったりといろいろだったけど、ストロボが瞬く音を数限りなく聞いてきた。

    そんなぼくがちょっと真剣に写真と向き合う必要に迫られている。
    ぼくは基本的にはほぼ毎日、海まで散歩して写真を撮っている。それ以外にも、これもほぼ毎朝、朝食の写真を撮っている。それ以外にもじつはふっと気になる景色を見つけると、つい iPhone を取りだして写真を撮っている。ときどき instagram や Facebook にも投稿している。
    毎日、写真を撮るようになったのは、いつごろからだろうか。たぶんデジカメを持ちはじめて、しばらくしてからだから、21 世紀の初め頃だろう。

    ぼくにとって写真を撮るとはどういうことなのか、ということを、その頃、真剣に悩んだはずだ。
    どうしてかというと、写真家の視界とぼくの視界には違いがあるんじゃないかと、前々から疑問に思っていたからだ。
    仕事柄、いろいろな写真を見ることも多かったし、撮影の現場にも立ち会った。もちろん有名な写真家の写真を見る機会も多かった。そんなぼくの頭の中に芽生えたのが、視界の違いだ。
    プロのカメラマンとぼくは同じ風景を見ても、きっと見えている「絵」は違うんじゃないかと思えて仕方なかったからだ。
    ぼくが好きな写真家のひとりに鹿野貴司さんがいる。この人の写真を見るたびに、つくづく視界の違いを痛感させられてしまう。それはいまでもだ。

    だから毎日写真を撮ることで、ぼくなりの視界を作ろうと思ったのかもしれない。
    一時期は、横木安良夫さんの真似をしてキャンディッドにもチャレンジしたことがあった。デジカメを胸からお腹のあたりに持ち、そのままノーファインダで写真を撮ったりした。被写体に気づかれることなくシャッタを切るわけだ。
    でもやっぱりぼくは横木安良夫では当然なかった。そもそも横木さんは、やはりきちんとした哲学を持った写真家だからなぁ。そりゃ、ぼくが見よう見まねできキャンディッドしたって同じような写真が撮れるわけじゃない。

    そんなぼくだけど、毎日写真を撮ることで、すこしずつ解ってきたことは、ぼくが撮りたいのは、その被写体ではなくて、その被写体の存在と被写体があることで生まれる空気感を切り取ることなんだということだ。
「写真は窓のようなものだ。壁の写真がタイムトンネルとなり、ほかの世界や、空想の場所につながっている」
    横木さんの You Tube で語られている一節だ。
    ぼくの理想は、その写真を見ていると、たとえば風を感じたり、波の音が聞こえてきたり、街の雑踏や、住宅街に響く子どもの声だったり、そんななにかを感じ取ることができる写真だ。

    だから、ぼくは毎日のように海へいって、風を感じ、潮騒を聴き、潮の香りを嗅ぎながらシャッターを切っているのかもしれない。


コメントを残す