ぼくにとっての癌 しあわせってなんだっけ 1 ぼくも癌でした


「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している」
 知っている人も多いと思う。村上春樹 著「ノルウェーの森」に出てくる一節だ。高校時代に自殺した親友について語るときに出てくる。
 この本を読んだのは出版直後だから 1987 年に読了している。なんとそれから三十年も経っているのか。
 読了直後にはなんてことはない一節だった。しかし、ぼくのこころのどこかにこの言葉は潜み、なにかあるたびに浮上するようになっていた。

 それはぼくが「死」を意識しているときに限らず、ほんとうになにかの拍子にふっと浮かび上がってくる。それだけぼくにとってはなにか意味のある言葉なのかもしれない。
 じつはそれはいまだによく解らないでいる。

 いまのぼくはすでに身体の中に「死」の影を抱いている。
 それは「癌」という形で、物理的にぼくの身体の中にあるわけだ。「死」を招くものとしてそれは存在している。
 そんなぼくが、いま改めて「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している」という言葉を噛みしめている。
 それはなぜなのかといえば、ぼく自身ある種のいらだちを覚えてしまうことにはなるんだが、いまだにぼくにとっての「しあわせ」はなんなのか、きちんと理解できていないからなのだろう。

「死」を内包していて、それはいつ訪れるのか正確には判らないけれど、しかし確実にぼくを「死」に至らしめる「癌」。それが身体の中にあるというのに、ぼくにとっての「しあわせ」ってなんなのだろうと冒頭の一節が甦るたびに、大いなる疑問としてぼくを混沌の迷宮へと誘うのだ。

 こんなぼくにとってこの身体の中にある「癌」っていったいなんなのだろう ?
 それに対しても明確な回答をぼくは持っていない。
 単なる病気なんだろうか。たとえば「風邪」や、ぼくが毎春に苦しめられる「花粉症」のように。ただの病気で、しかも治る可能性があって、きちんと治療すればいいものなんだろうか。
 それとも「死」を招く存在としてぼくの中にあるんだろうか。

 もしかするとそこから考えなければいけないのかもしれない。
 そんなことすらいまのぼくはなにも解っていない。
 抗癌剤の治療を受けているけれど、それは「癌」を治療するためなのか、それともただ主治医に指示されているから、ただ従容と受け入れているだけなのか……。
「死」を内包しているくせに、もしかするとぼくはこの「死」というものをきちんと正面から見つめていないだけなのかもしれない。だからこそ、ほぼ思考停止のような塩梅で日々を過ごしているだけなのかもしれない。

 それでも「死は生の対局としてではなく、その一部として存在している」ことについては素直に頷くことができる。いまのぼくはしっかりとこの言葉を受けて入れることができている。
 なんなのだろう。

 海を眺めているときに感じるとても平安な気持ち。それは確かに心地いいものだ。
 潮風を浴びて、潮騒に耳を傾ける。至福のときといっていいだろう。
 それでもそれがぼくにとっても「しあわせ」なのか実感を抱くことができずにいる。
 ぼくにとって「しあわせ」ってなんなのだろう。

 もしかしたらそんな疑問を抱きながら命を燃焼尽くしてしまうのだろうか ?
 それが、いやそれこそが「ぼく」ならそれでもいいんだが、果たしてそうなのかどうか。
 それについてはもっとじっくりと考える必要がありそうだ。やれやれ。

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